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2007 04,18 23:49 |
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この数日に起きた日・米の銃撃事件。思うことはあれこれあるのだが、映画ブログらしく、映画ファンとして思うことを記事にしてみたいと思う。
バージニア工科大学の事件で誰もが思い出すであろうのは、コロンバイン高校の事件である。コロンバイン高校といえば、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』。アメリカ銃社会をユーモアを交えながら痛烈に批判すると同時に、驚くほど冷静に検証しているドキュメンタリー映画だ。今回の事件で、結局あの映画は無駄な作品になってしまったのか、という空しさを覚えた。『ボウリング~』はその年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞し、日・米共に、ドキュメント映画としては空前の大ヒットとなった作品だ。多くの人が劇場まで足を運んで鑑賞し、マイケル・ムーアのメッセージを受けたはずだ。にも拘らず、今回の事件は起きてしまった。 どれだけ興行成績を挙げようと、作者がどれほどメッセージをこめようと、映画は所詮映画でしかない。そのことを、改めて思い知らされたような気がする。勿論、映画の力だけで社会を変えられるとは思っていない。でも、映画というメディアの無力さを、まさかこのような形で知らされることになるとは思っていなかった。結局『ボウリング~』のヒットは、銃社会への警鐘にすらならなかったのか、と。 ムーア氏は、今回の事件をどのような思いで受け止めているのだろうか。自身の無力感に打ちひしがれてないといいのだが。ムーアは「ドキュメントでも商売ができることを立証した」という部分で、映画界への貢献度も高い作家だ。そういう方に、創作意欲を失って欲しくはない。 先日鑑賞した『不都合な真実』のデイビス・グッゲンハイム監督や出演なさったアル・ゴア氏には、そのような無力感を味あわされることがないように、と、願わずには居られない。 それにしても、アメリカ人はコロンバイン高校から何も学ばなかったのか。そのことに呆れると同時に、ムーアが「銃犯罪が少ない」と謳ってくれた日本で、長崎市のような事件が起きた事に、心から嫌悪を恥じらいを覚える。 PR |
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2007 01,08 23:02 |
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これ以上間が空いてしまうのも淋しいので、前に予告したとおり、このシリーズを進めていこうかと。美味しそうな料理の出てくる映画を、“料理中心に”紹介してみたいと思います。今回は東洋映画で。
『初恋の来た道』 公式サイト 私も大好きな、チャン・イーモウ監督の作品。チャン・ツィイー演じるヒロインが作るお料理の一つ一つが、素朴だけど美味しそう。特にツォンヨーピンと餃子。スクリーンのこちらからかぶりつきたくなる。上記公式サイトにレシピも出ているので、興味のある方はどうぞ。 『活きる』 goo映画レビューページ 同じくイーモウ作品から。『ラストエンペラー』の時代を、庶民視点で描いている傑作。イーモウ作品の中で、一番のお気に入り。文化大革命時代の「労働者階級」と呼ばれる市民のひとコマに、餃子が登場する。街の上役のような人物が、「今日はお祝いに皆で餃子だぁ!ブタ丸ごと一頭分作るぞっ!」と叫ぶと同時に、街中が歓喜の声に溢れる。当時、庶民にとって肉は高級品だったことをことを匂わせるひとコマ。出来上がった餃子もその分、一層美味しそうに映った。プリプリ感もあったし。 『おばあちゃんの家』 シネマ・トピックス・オンライン紹介ページ 続いて韓国の知る人ぞ知る名作。少年サンウが、言葉の不自由なおばあちゃんと嫌々生活するうちに、次第におばあちゃんをいたわる気持ちが生まれる、というストーリー。初盤で、おばあちゃんが晩ご飯に出してくれたキムチがとにかく美味しそうで美味しそうで。サンウは嫌がってスパムで米飯をパクパクしていたが。「スパムってああやって食べても美味しいんだ」と、個人的な発見もあったシーン(笑) 今回はこんなところで。次はヨーロッパ系の映画でいってみようかな。 |
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2006 12,31 23:44 |
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今年もとうとう終わり。本サイトでは恒例になっていた映画総決算を、このブログでも行おうかと思う。
1位『サンキュー・スモーキング』 2位『猟犬と犬、最後の旅』 3位『クラッシュ』 4位『キンキーブーツ』 5位『マッチポイント』 6位『カポーティ』 7位『歓びを歌に乗せて』 8位『ナイロビの蜂』 9位『ハリー・ポッターと炎のゴブレッド』 10位『インサイド・マン』 次点『グッドナイト&グッドラック』 『トゥモロー・ワールド』 今年は本数を観ておらず、絞って観に行った為か、良作にめぐり合うことが多かった(特に下半期)。本音を言うと五位以下は全作同点。苦慮の選択でどうにか12本選んだという感じだ。 『サンキュー・スモーキング』と『猟犬と犬~』は、どちらを一位にするか悩んだが、より多くの笑いを私に与えてくれた『サンキュー~』を一位にした。『猟犬~』は、もっとドキュメント色の強い作品だと思っていたのだが、まさかあんなにエンターテイメントとしての“重み”もあるとは思わなかった。驚きの一本。『マッチポイント』を5位にしたのは自分でも意外。あまり気持ちのいい映画ではなかったが、久しぶりにウディ・アレンの実力を見せ付けてもらったのが、多分映画ファンとして嬉しかったのだろう。 今年は社会派ドラマからコメディと、本数が少ない割には偏りのない鑑賞が出来たと思う。ただ、東洋映画の鑑賞が極端に少なくなってしまったことが残念。来年も、時間がないなりに、なるべく幅広い鑑賞が出来れば、と思う。 それでは皆様、よいお年を! |
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2006 12,02 22:20 |
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ここ数年、優れた日本映画や韓国映画の宣伝文句に、ほとんど枕詞のようについてくる言い回しがある。「あのハリウッドがリメイク権を獲得!」ごく最近では公開中の『デスノート』も確かそんな話を聞いたことがある。韓国映画『猟奇的な彼女』はウソかホントか、あのスピルバーグがリメイク件を高額獲得したとかしないとか。とにかく「あの映画の都が認めた作品だ」というのが映画の品質保証であるかのような扱いだ。まあ、確かに世界の映画市場を数十年に渡って支配し続けるハリウッドがリメイクしたいと思わせる作品を作ったと言うのは、製作者側にとって名誉なことだろうと、想像に難くないのだが。
5年ほど前、20世紀Foxが日本アニメ『ドラゴンボール』の映画化権を買収したことが話題となった。2005年に『スター・ウォーズ』シリーズが完結した後、看板シリーズを失うことになるFoxが、以降の目玉シリーズにするつもりだ、なんて記事にはあった。あの話題が日本の映画ファンの間でかなり噂になったのは記憶に新しい。やれレオナルド・ディカプリオが孫悟空やるだの、シュワルツェネッガーが亀仙人のオファーを受けただの、今考えればかなり馬鹿馬鹿しい話もあった。 これは実際に業界の人から聞いた話なのだが、映画産業界では「映画化権が買われる=映画化される」ということでは決してないらしい。大手製作会社では、人気のある小説やコミック、リメイクしたら面白そうな外国映画の著作権は、他の会社に奪われてしまう前に先手を打って買収してしまうのが常識だと言う。要するに、ひとつの会社が著作権をがっちり握ってそのまま製作されずじまいになるというのも、珍しい話ではないのだ。中には『インファナル・アフェア』のように実際に製作・公開されるものもあるが、ハリウッド版『ドラゴンボール』や『猟奇的な彼女』が観られる日など、永遠に来ない可能性もあるというわけ。 『ドラゴンボール』実写版はあまり観たいと思わないのが本音だが、浦沢直樹の『モンスター』の映画化権がどこぞの映画会社に買われたと話を聞いたときは流石に胸が躍った。名作といわれる作品が、このような大手企業の「先手買収」の為に、映像化されることが永遠になくなってしまうことがあれば、これほど嘆かわしい話もないと思うのだが。実際に出来上がった映画の出来・不出来は別として、やはり自分の愛する作品が映像になるのは、胸踊る出来事だ。 |
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2006 11,19 01:11 |
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『スター・ウォーズ』ほどはまってはいないが、「あなたはポッタリアンですか?」と聞かれたら、迷わず「YES」と答えられる程度には、『ハリー・ポッター』が大好きな私である。出会いは原作のほうが先である。
一作目『ハリー・ポッターと賢者の石』の監督がクリス・コロンバスだと知った時、私は既に「映画」としての出来に関しては、ほとんど諦めがついていた。無難な作品作りに定評のあるコロンバス監督。最低限の仕事はするだろうが、それ以上のこともまずしないだろう、と。それなので、原作に完全に隷属してるような映画を見せられても、「まあこんなもんだろう」ぐらいにしか思わなかった。二作目『ハリー・ポッターと秘密の部屋』を観た時もそう思った。 ところが三作目『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』は、前二作からは想像も出来ないほど、個性的で魅力に溢れた映像作品に仕上がっていた。アルフォンソ・キュアロン監督の、映像作家としての創作意欲の全てを垣間見、キュアロンの魂さえ感じる映画に仕上がっていた。四作目『ハリー・ポッターと炎のゴブレッド』も同様だ。ベテラン作家マイク・ニューウェル監督の映像美の世界を堪能出来る、子供向け映画とは思えないほど重厚な作品になっていた。 この四本の『ハリー・ポッター』を見比べるにつけ、「映画ファンとしての私は、何て幸せなんだろう」と思わずにいられない。世界に名の知れた監督さんたちの個性を、同じ世界観を持つ作品を通して比較することが出来るなんて、そうそうある機会ではない。初版二作でコロンバスがしっかり『劇場版ハリポタ』の基礎固めを行い、そこにキュアロンが魂を吹き込み、ニューウェルが重みをプラスする。ハリーたちとは別に、映画そのものの成長も楽しめるなんて、映画ファンとしてはこの上ない贅沢だと思う。 しかし、作品ごとに違う監督さんがメガホンをとっている為、シリーズとしてのバランスが崩れてしまっていることは否めない。コロンバスとキュアロンのホグワーツはまるで違う場所のようだし、キュアロンの描いたホグワーツを尊重しているニューウェルのものともまた別物になってしまっている。そのような相違は、ロケーションだけに留まらない。 これは完全に私の想像なのだが、プロデューサーのデビット・ヘイマン氏は、『ハリー・ポッター』に、シリーズとしての整合性を既に求めていないのではないのかと思う。私は映画版『ハリー・ポッター』は「数多の監督たちによる映像の祭典」と位置づけている。原作の“魂”さえ盛り込まれていれば、忠実さなんて求めない。そんなものよりも、それぞれの映像作家さんたちの個性を楽しみたい。そこまで大げさなことは言わないだろうが、ヘイマン氏の本音も、実はそれに近いのではないか、という思いが拭えない。 五作目『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』は、『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ監督、『モンスーン・ウエディング』のミーラー・ナーイル監督などにオファーが行っていたという。いづれもアプローチに失敗し適わなかったのだが。しかし、全く個性の違う三人にメガホンを取らせたその上に尚、一癖も二癖もある監督を乗せようとしていたのだ。私にはそれが、色々な監督さんに『ハリー・ポッター』を撮らせてみたいという欲求が、シリーズの整合性に打ち勝ってしまってるように見えるのだ。 もう既に製作が開始されている五作目を除くと、残る『ハリポタ』は後二本。一体どんな監督さんが撮ってくれるのだろうか。今から本当に楽しみだ。そしてヘイマン氏には、次こそは慎重なアプローチをお願いしたいと思う。 |
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