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2026 05,13 03:49 |
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2006 07,03 00:24 |
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折角TV放送していたので、観てみた。
公式サイト 冒頭は家事で手が離せず、ながら観になってしまった。が、ものすごく面白かった。公開当時はどうしても「トム・クルーズのプロモ映画」のように感じてしまって食指が動かなかったのだが、やかり劇場で観ればよかったと今更後悔する。前作は、TVシリーズ『スパイ大作戦』の劇場版ということで観に行った。デ・パルマらしいアクションとサスペンスの作り方に大満足だったが、『スパイ大作戦』なのに“フェルプス君”がいなかったり仲間割れしてたのが肩透かしだったのも本音。このシリーズは『スパイ大作戦』の映画版ではなく、『ミッション:インポッシブル』というシリーズとして観たほうが面白い。もっと深く考えた言い方をすれば、「IMF内の、フェルプス・チーム以外のエージェントの話」だと思えばいい。 ジョン・ウーは実は初体験なのだが、アジア人らしいアクションの撮り方をする人だなぁ、と思った。勿論文句はない。特に、鳩を効果的に使ったアクションシーンと、ラストの格闘シーン。ああいう味は、やはり東洋系の方ではないと出せないだろう。同じアジア人として誇らしい。とは言え、カーチェイスのシーンだけは、トム・クルーズのプロモ的な要素が強すぎるように思われる。まあ、あれはファンサービスということで。 このシリーズも『ハリー・ポッター』シリーズのように、それぞれの監督さんの個性を味わう作品なんだろう、と、今回観て思った。デ・パルマ、ジョン・ウーと、それぞれの“ミッション:インポッシブル”が楽しめた。折角だから御贔屓のアルフォンソ・キュアロンにもメガホン取ってもらいたい。 それにしても、東西冷戦が終わってスパイの需要が減っただろう中、よくあそこまで『スパイ大作戦』を映画に昇華できたものだと感心する。TVシリーズの劇場版の、見事な成功例のひとつだと思う。 PR |
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2006 07,02 00:19 |
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『ダ・ヴィンチ・コード』を観て、同じロン・ハワードの監督作『ウィロー』について話して見たくなった。
goo映画紹介ページ 『ウィロー』はジョージ・ルーカスが原案・製作総指揮を務めた作品だが、それまでのルーカス作品と比べて、SFX技術以外真新しいものなんて何一つないという意味で、あまり評判のいい映画ではない。ストーリーなどはっきり言って『スター・ウォーズ』の使いまわしだ。遥か昔の話で、フォースの代わりに魔法があって、デス・スター設計図の代わりにエローラ姫が流されて、未熟な若者がおかしな二人組みに翻弄されて、ならず者とプリンセスのロマンスがあって、親子の確執があって、主人公が農民で。ここまで一緒なら、ストーリーが手抜きだと言われても言い返すことなど出来ないだろう。 しかし、私はこの映画が大好きなのだ。 中学生で始めてみた時は、流石に「なんだこりゃ??」と思った。しかし大人になって見直して、新たに発見するものも多い作品だった。その中で一番大きな発見だったのが、監督のロン・ハワード。この『ウィロー』という映画は、ハワード監督の人を見つめる眼差しの温かさを、じかに感じられる映画なのだ。 主人公ウィローは見習い魔法使い。能力はあるけど自分に自信がなくて、いつも村の笑い者。そんな彼に託された、エローラ姫を守り、悪の女王と戦う旅。その旅すがらに出会うのは流れ者のマッドマーディガン、女王の娘ソーシャ姫、老いた魔法使いシャンドリラ。みんな始めはウィローを馬鹿にするんだけど、気がつくと、皆、心を一つにして彼と共に戦おうとしている。物語が進に連れ深まる彼らの絆。その描写がものすごく自然で、観ているだけで心が豊になりそうなほど、温かい。 例えばマッドマーディガン。彼は始め、自分の利益の為だけにエローラ姫の世話を申し出た。ウィローたちと旅をする事になってもしぶしぶだった。でも、彼は次第にエローラとウィローを大切に思うようになっていく。彼の心が変わっていく様は、観ているこちらの「温かい心」「優しい心」に訴えかける。彼は本当は仲間を愛せる男なんだと。そして物語りのクライマックス、女王の手下にエローラを奪われ、絶望に嘆くウィローに向かって彼は言う。「ウィロー、追えるな。大丈夫だな。一緒にエローラを追おう。」 改めて観て、あのシーンは本当に涙が止まらなかった。マッドマーディガンの、そしてメガホンを取って彼をフィルムに収めるハワード監督の優しさが、ダイレクトに心に響き渡る。ああ、この映画は、ロン・ハワードという人の優しさや温かさを感じる為にある映画だったんだ・・・観終わった後には、とても清々しくて豊かで、ふくよかな気分になっていた。 ストーリーが単純だからこそ、伝わるものもある。私は『ウィロー』からそれを教わった気がする。あの映画の存在意義は、ハワード監督そのものにあるのだ。 |
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2006 06,25 00:04 |
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やっと観てきた。
公式サイト 製作国=アメリカ 姉の評価=★★★★★ かなり甘めの評価をして★5つ。限りなく4つに近い5つといったところか。原作ファンからかなり酷評を受け、それを見聞きしていたので、全く期待せずに観に行った。逆にそれがよかったのだろう。もっと散々な映画を想像していたせいか、かなり満足して劇場から帰ってこられた。 勿論原作ファンとしても映画ファンとしても、あれこれ不満は残る作品であった。が、ラスト、ラングドンが跪いて祈りを捧げるシーンでは、涙を流してしまった。全く同じラストでも、映像にして見るとまた違う感動を味わえる。彼が何に対して祈りを捧げていたのか・・・価値のあるラストシーンだった。あれだけ情報量の多い原作を、よくあそこまで映像に昇華させられたものだ。制約が多い中であれだけの作品を作ってくれれば、100点は出せなくても合格点には充分ではないのだろうか。 しかし満足はしたが、どうしてもこの映画を手放しで評価することは出来ない。その理由を3つにまとめてみた。 ①緊張感をそぐ編集 まず映画としてのマイナス点その1。例えば冒頭のルーブルからの脱出劇。脱出画策からブローニュの森まで一気に見せてくれれば緊張感が増し、その後の作品全体の緊張感を形成することができただろうに、中途半端に別のシーンを挿入したりしてしまってるので、そこで緊張感が失われてしまう。それ以後もそんな編集は続く。要するに、映画らしい緊張感を作るのに失敗してる。ロン・ハワードらしくない失敗。 ②俳優の個性が感じられない 映画としてのマイナス点その2。トム・ハンクス、オドレイ・トトゥなど、あれだけ個性の強い俳優陣をそろえておきながら、誰一人として個性が生かされていない。演技は悪くないのだが、ラングドンにしろソフィーにしろ、「別にこの役者がやらなくても・・・」という感じなのだ。ジャン・レノに至っては「お前いたっけ??」ぐらいの存在感。有り得ない。この映画では役者の個性が「撲殺」されていると言っていい。食材を使い散らして無駄にしてしまった料理、と言った感まである。原作を昇華するのに精一杯で、役者の個性を際立たせることにまで手が回らなかったのか? ③原作の重要主題が盛り込まれていない これは『ダ・ヴィンチ・コード』としてのマイナス点。ベストセラーを原作として持つ映画としては、原作を「切って捨てて盛り込んで」のやりくりが上手に成されているほうだとは思う。しかし、原作の重要主題がまんまと抜けてしまっているのは許せない。「信仰心、信仰の形は人それぞれ」・・・これが原作の重要主題のひとつだと私は考えている。原作ではシオン修道会、バチカン、それにオプス・デイでさえ、最終的には否定していない。それぞれに信仰心があって、信仰の形がある。それでいい。しかし映画ではそれは“さらっ”と触れられて通り過ぎてしまい、バチカンとオプス・デイは結局導師に利用された、ただのお間抜け野郎で終わってしまっている。他の何を割愛しようが、ここだけは盛り込むべきだったのではないのだろうか。 ここまで評価できない理由を書いておいてなんだが、劇場に足を運んで観るに充分足る映画だったことは、最後に言っておかねば。ロン・ハワードほどのベテランだったからここまでの映画にすることが出来たわけであって、別の監督がメガホンを撮ってたら、それこそ観るに耐えられない作品になっていた可能性もある。 |
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2006 06,22 23:56 |
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つい先ほどTV放送していたのが終了。実家に帰省中で娘の面倒放棄できるのをいいことに、久しぶりにTVで映画を観る。で、折角なので感想など。
Yahoo! Movie紹介ページ 公開時、観に行こうかどうか悩んだ作品だったが、率直な感想は「金払わずに観られてラッキー」と言ったところだろうか。チケット買って観に行ったら損した気分になっていただろうが、TV放送で「暇つぶし」程度に観る分には充分楽しめる。金銭的負担がなかったので、まあまあ評価できる作品となった。 戦闘シーンは迫力満点だし、サハラ砂漠の描写は過酷で雄大。その辺りは「劇場で観たかった!」と思わせるだけの力を持っている。が、主人公ハリーをはじめ、登場人物たちの行動に、動機を感じにくい。ハリーが臆病者の汚名を晴らしたくてサハラに行ったのは判るのだが、「砂漠を植民地にする為に命を賭けるなんて」と、それなりの信念をもって除隊したハリーが、突然「サハラに行ってきます!」・・・説得力がない。映画としてはまず、そこのところが非常に残念。 そして、これは評価できない一番に理由なのだが、この手の映画ではほとんど常套手段となっている“戦争の美化”が、この作品でも行われていた。愛だの友情だのと、そんな奇麗事で戦争は勤まらない。せめて作品の初盤でハリーが言った「砂漠しかないスーダンを植民地として支配するために、命を賭ける意味なんかあるのか?」という台詞に、さらっとでも映画として答えを出してくれていれば、もっと評価できる作品になっていただろうに。エンターテイメントなので愛だの友情だのを持ち込むのは構わないのだが、上記の台詞で、「戦争の空しさ」みたいなものをある程度盛り込んでいるのか、と期待してしまった分、失望も大きかった。原作やリメイク前の前5作は、その辺りどのように表現してくれているのだろうか。 観終わった後、漠然と『トロイ』が頭をよぎった。あれは叙事詩「イリアス」を原作にしているにも拘らず、戦争の残虐さと空しさを全面的に押し出した映画だった。神話的な話が「人と人が殺しあう戦争映画」に変身・・・ある意味『サハラ~』とは対極にある映画だな、と。『トロイ』はペーターゼン監督作品としては下から数えたほうが早いような出来の作品だが、「戦争を美化してない」というただ一点に、好感を覚える。 |
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2006 06,18 05:26 |
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洋画は東西問わず観るように心がけてるが、日本映画となると、国賊扱いされても文句が言えないほど、全く食指が動かない私である。邦画も観れば心を動かされるような作品が沢山あるのだろうが、何故だか「金を払ってまで」という気にならない。自分でも不思議だ。多分、日本人が日本語で喋ってるので、リアルすぎて「映画を観ている」気になれない(少なくとも洋画ほどは)からだろう、と、自分なりに分析しているのだが。
そんな私がきちんと鑑賞したことのある数少ない邦画のひとつが、『吉原炎上』である。 goo映画レビューページ 8年ほど前、ドイツのロマンティック街道をバスで旅してる最中、ふとこの映画の一場面を思い出すことがあった。すっかり観光ルートとなったロマンティック街道の見世物のひとつである、「一般の民家」が立ち並ぶ小さな街のひとつを通り過ぎたことである。私の敬愛する小説家・森瑤子先生がエッセイで「日本人と違って、欧米人は“窓”にこだわりを持っている」と仰っていたのを、そのまま目で見てるような家々が並び立つ。勿論庭も愛らしい。ヨーロッパの人々にとって、プライベートな空間というのは“カーテンの内側”のことなんだなぁ、と、欧州人のこともよく判らないなりに感じた。公衆の目にさらされる庭や“カーテンの外側”は、欧州の人たちにとっては自分の敷地内であってもリパブリックな空間なんだろう、と。 そう思った時よぎったのが、『吉原炎上』である。遊郭の花魁たちの生き様を描いたこの作品のどこがよぎったのかと言うと、“昼間の吉原”のワンシーンである。 金持ちの男たちが、花魁を買い求めてにぎわう夜の吉原は、街そのものが華やかで、淫靡に、美しく飾り付けられている。男たちが一夜限りの愛を求めて闊歩する街だから、当然、非日常的な雰囲気で溢れかえっている。しかし昼間ともなると、そこは一変する。吉原中のあちこちの二階に赤いお布団が干され、「ぱぁんぱぁん」と布団たたきが威勢のいい音を立てる。非日常的だったリパブリックな空間に、容赦なく「日常」が溢れ出す。 多湿な日本と、雨が降っても尚空気が乾燥している欧州、という風土の差だけで、こんなにもリパブリックな空間の領域が違ってしまうものなのかと思った。湿度が高い日本では、洗濯物や寝具を乾燥させるには、太陽光に当てる必要がある(あるいは“あった”)。その為には、人目につく“カーテンの外”に日常を露出せざるを得ない。吉原でも同じだ。“遊郭”という、雰囲気も商売道具のひとつであろう場所でさえ、リパブリックな空間に「日常」が流出するのを抑えることが出来ない。欧州とはまさに正反対だ。 ロマンティック街道とは無縁も甚だしい映画に、まさにその地で思いを馳せたという、何とも奇妙な話である。 |
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